SEEDS:VOICE 寄附者の声 「異花受粉」が起こるような環境に 根本まつ氏 1954年 教育学部中学校教員養成課程卒 ネモト運送有限会社 代表取締役

根本氏は、教育学部を卒業後、40年近くの長きにわたって教育者として過ごしてきた方だ。穏やかで誠実な語り口からは、教壇に立ちつづけた雰囲気がよくうかがえる。退職後は、生まれ故郷に戻り、ご実家の運送業の代表として日々を忙しく過ごされている。戦後の混乱期を含め、千葉と千葉大を見つめてきた氏に、基金への思いも含め、お話を伺った。

生まれたのは、この長生村です。千葉で生まれて千葉で育っています。私が千葉大学に入学したのは昭和25年(1950年)。学制改革で、大学も旧制から新制に移行した時期です。この時期、終戦前後は、個人的にも空襲の機銃掃射で実家が焼けてしまったり、農地改革で1年農業をやらざるを得なかったり、大変な時代ではありました。

私の学生時代は、戦後が本当に色濃く残っている時代でした。家は外房の九十九里浜に近い長生村ですから汽車で通っていました。まだ当時は鉄道もいまと違って整備されてなくて時間通りいかないこともしょっちゅうです。蒸気機関車でしたから、トンネルを抜けるときは石炭がらが窓から入らないように閉めたり。そんな風にして4年間通いました。

当時はアルバイトをしている学生が圧倒的に多く、みんな本当に貧しかったと思います。でも、この日本を復興させよう、何とかしようというので、お互いに助け合いながら学んでいました。

私は中学校理科の専攻でしたが、新しいものを勉強できる喜び、自分が知的に磨かれる喜びで、毎日すごく新鮮な気持ちでした。大げさな言葉かもしれませんが、自分が勉強することで日本の復興につなげていきたいと思っていました(笑)。とにかく、その頃の日本人は皆、がんばろうと思う気持ちで生きていたように思います。

当時の学生仲間は切磋琢磨した仲ですから、いまでもお付き合いがあって、年に1回集まったりします。以前は2月の建国の日に集まっていたんですが、少し皆が歳をとってきて冬は厳しいので6月頃開くようにしています(笑)。

新制大学の2期生として卒業後は、40年近く県内の小中学校の教師や教育委員会での職務を務め、最後は小学校校長として平成3年に退職いたしました。その後、父が興した会社である「ネモト運送」を10年ほど前に私が継ぎました。いまは実家の運送業の社長のかたわら、故郷の湿地植物の調査や自然保護活動を行っております。一昨年、それで千葉県から文化の日に環境功労賞をいただきました。

千葉大のキャンパスは緑が豊かですよね。私は、けやきという木が好きで、夏には大きな繁りで人を柔らかく包んで、そして、秋から冬にかけては葉が全部落ちますが、見事な枝ぶりになる。そして春が近くなると細い枝の先からきれいな緑の新芽が出てくる。こうして一年間流れていく、けやきの変わらない生きざまを見ていると励まされます。

基金のことは、平成20年にSEEDS基金事務局の方がお出でくださって、説明を聞いて知りました。そのときお返事はしなかったんですが、心の中では、やはり頂いた恩をお返ししなければと思いまして。それで、その一週間後に大学にお邪魔して寄附をさせていただいたんです。

あまり母校ということを意識してこなかったんですが、寄附することになって改めて発展してほしいなと思うようになりました。寄附の使い道は一切問いません。強いてあげるとするなら、総合大学ですので異なる分野同士がお互いに反応するような「異花受粉」のようなことが起こればいいですね。あるいはグローバル化が大学全体に波及するように使われると、と思っています。

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